江戸時代へタイムスリップ!?権兵衛峠(コメの道)視察

権兵衛峠(コメの道)入口

こんにちは。南箕輪村協力隊のなるきです!

今回は、南箕輪村が誇る古道「権兵衛峠(コメの道)」について書いていきます。

朝晩の冷え込みが厳しくなってきた12月上旬。前から気になっていた権兵衛峠を歩いてきました。

ここで権兵衛峠のことを知らない人のために、簡単に解説!

権兵衛峠とは…

険しい中央アルプスに隔てられた、長野県の木曽伊那を結ぶ峠道のことで、南箕輪村の飛び地エリアを通っています。
江戸時代以前、長野県の木曽地域は、山に囲まれているため、田んぼも少なく、周りの峠道も危険だったため、お米を運び入れることも難しく、食料に困っていました。
そこで村人たちは、山の段々畑でそば、キビ、いも、豆などを作って細々と暮らしていましたが、お米に関しては伊那や高遠に依存しなければなりませんでした。
伊那のお米を木曽へ運搬する場合、少量のお米を人力で運び峠を越えるか、日数や経費がかかる馬を使い、塩尻峠や牛首峠を通る方法しかなく、いずれにしても不便でした。
そこで、木曽の神谷に住んでいた古畑権兵衛が問屋に呼びかけ、伊那側にも峠道の整備を働きかけました。古畑権兵衛を中心に、峠道の整備は行われ、全長24kmに渡る道が整備されました。峠道は元禄12年(1699年)に完成したと伝えられています。その後、伊那から米を木曽へ、木曽からは、漆器や曲げ物、木製品などの工芸品が、伊那へ運ばれるようになるなど、人馬が行き交う街道となりました。昔は「鍋掛峠」という名前でしたが、古畑権兵衛の功績にちなんで、いつしか「権兵衛峠(コメの道)」と呼ばれるようになりました。

このエピソードを始めて聞いた時、江戸時代に切り開かれた権兵衛峠を自分の足で歩いてみたいという衝動に駆られましたが、なかなか行動に移すことができず、日数だけが過ぎていました。

登山経験が、高尾山(東京都)と富士山(山梨県)しかない私一人で、権兵衛峠に挑むのは正直不安💦

そんな時「おっ?待てよ!?南箕輪村の協力隊には生粋の山好きがいるではないか!」

ということで、私の大先輩にあたる杉本(陽)隊員に声をかけ、権兵衛峠アタックを決行✨

もちろん登山好きの杉本(陽)隊員は二つ返事で承諾してくれました。感謝です!

権兵衛峠入口(年季の入った看板がお出迎え)

伊那市側から権兵衛街道を小沢川に沿って登っていくと、舗装路がなくなるギリギリのところに権兵衛峠の入口(標高1,010m)

があります。ここから未舗装の峠道に入っていきます。

ちなみに、上を見ると国道361号線の権兵衛トンネルが見えます。

国道361号線権兵衛トンネルの真下
権兵衛峠(七曲り)

序盤は、七曲りと呼ばれる道をクネクネしながら登っていきます。時々景色を見ると、下方に駐車した車が見えるので、高度は上がっていますが、ほとんど移動していないことに気がつきます💦

現在は「権兵衛峠遊歩道」が正式名称ですが、これは軽い登山です。この季節は、写真からも分かるように落ち葉がぎっしり。「落ち葉の絨毯」の上を歩いていきます。前半は道幅も広く、比較的歩きやすいです。昔は、米俵を担いで人馬の往来が盛んだったと思うと感慨深い気持ちになります。

茶屋の跡

七曲りをしばらく進むと、「茶屋の跡」が現れます。看板が設置されていなければ、絶対に見過ごしてしまいます。

この茶屋は、明治30年代から昭和30年代までの50年余り、茶屋のかたわら、炭焼きや畑作。そして運送業も営まれていました。明治44年の国鉄中央線の全通により、往時の賑わいは失ったものの、昭和10年頃までは「七曲りの茶屋」として、行き交う人々の憩いの場となっていました。いわば、権兵衛峠のスターバックス的な存在だったんですね!

嘘か本当かは分かりませんが、茶屋の子供たちは、毎朝この茶屋から小学校に通っていたという話を役場職員の方から聞きました。こんな峠道が通学路なら毎日がトレーニング。将来陸上選手になったこと間違いなし!(笑)

土砂崩れ箇所

茶屋に別れを告げ、しばらく進みます。少しずつ道幅も細くなってきました。滑落しないように注意。

途中、写真のような土砂崩れの跡もありました。危険な場所は無理せず、安全第一で頂上を目指します。

謎の石垣

謎の石垣を発見!もともとは建物が建っていたのでしょうか?宿題として後日調べてみます。

権兵衛鍬の跡

少し疲労を感じ始めた矢先、またしても看板を発見!その看板には、「権兵衛鍬の跡」の記載。

この岩は、峠道の改修工事に尽くした木曽神谷の権兵衛と、伊那与地の七一は共に力自慢で、仕事の途中に鍬で岩に切り込みを入れ合い、互いに力比べをしていたとのこと。権兵衛と七一の体力と怪力、恐るべしです。

謎の川?!

聞こえてくるのは、川のせせらぎのみ。小鳥一匹さえいません。熊も12月なので冬眠しているはず!

透明度抜群の川沿いを進んでいきます。こんなに綺麗なら飲めるはずだ!しかし、大学3年生の時に同じように透き通った川の水をがぶ飲みして、「肝炎」を発症した苦い思い出があるので我慢して進んでいきます。

丸太橋を渡る

こんなに狭いスリリングな丸太の橋も渡っていきます。さすがにこの季節になると凍っている橋もあるので、注意して進んでいきます。頂上に近づくとうっすら雪も残っています。

倒木と杉本(陽)隊員

倒木の横でかっこつける杉本(陽)隊員を記念撮影。ここ周辺は、倒木が多く、冒険気分を味わえます。

ここまでくると山頂までは、あと少し!

氷柱を発見!

頂上まで残り150mの水飲み場には大きな氷柱が!私たちはずっと体を動かしていたので気がづきませんでしたが、外気温は0℃を下回っているみたいです。

古畑権兵衛石碑と記念撮影

水飲み場の反対側には、古畑権兵衛の功績を称えて作られた大きな石碑があります。せっかくなので石碑とパシャリ!📸

頂上からの景色(伊那方面)

なんとか頂上に到着!(標高1,522m)

テレビ塔?のケーブルが邪魔ですが、南アルプス伊那市街地を一望できます。

所要時間は約1時間20分でした。ゆっくり登ってきても2時間もあれば頂上に到着すると思います。

その後、頂上でお昼を食べてそのまま帰路につきました。

ちなみに、権兵衛峠(コメの道)はそのまま木曽の方に繋がっているかというと…

権兵衛峠(塩尻側から)

塩尻市側は草が生い茂り、道がほとんどわからない状態になっています。さすがに歩けません。

もし、道が繋がっていたら南箕輪から木曽方面まで通して歩こうと思っていましたが非常に残念です。

権兵衛街道(旧361号線)※撮影場所は塩尻市

最後に、今回の視察のGPS経路を掲載しておきます。

途中、権兵衛峠を外れて山道の散策もしています。

総括】

実際に「権兵衛峠」を歩いてみると、何百年も前の先人たちの知恵と努力に驚きを隠せませんでした。経ヶ岳林道(旧361号線)や権兵衛トンネル(国道361号線)の開通により、峠道の必要性はなくなっていますが、歴史的には価値が高く「コメの道」と呼ばれる背景や由縁を知るとロマン溢れる魅力ある資源だと感じています。
数年前までは、ハイキングのイベントなどが開催されていたそうですが、 現在は土砂崩れの影響などにより、そうしたイベントは行われていません。現時点では、協力隊員として権兵衛峠の歴史を知ってもらったり、峠道自体の整備に携わり、権兵衛峠の普及活動に貢献できたらと考えています。

今回取り上げた権兵衛峠(コメの道)の詳細は、自身で制作・配信しているポッドキャスト番組の中でも話しています。少しでも興味を持った方は、ポッドキャストも聴いていただけると幸いです!

※ポッドキャスト番組:「Mラジっ!!

2022年12月3日(土)配信【Season2】#5 木曽と伊那を結ぶ古道「権兵衛峠」の歴史と変遷について解説

の回で詳しくお話しています。

最後まで読んでいただきありがとうございました~!    

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